日本一の巨大財閥を築いた岩崎弥太郎の経営戦術

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明治維新という激動の時代に生きた三菱創業者の岩崎弥太郎。

今回は巨大財閥を作った岩崎弥太郎の経営戦術を紹介していきたいと思います。

三菱商会の誕生

岩﨑弥太郎は、土佐藩の実権を握っていた後藤象二郎から、長崎にある貨幣局の出張所(土佐商会)に勤務することを命じられます。

算盤や商売のやり方に精通していた弥太郎は、長崎にきてわずか3ヵ月で土佐商会の主任者に抜擢されます。

弥太郎は、土佐商会で経営手腕を発揮し、土佐商会にとって必要不可欠な存在となっていきます。

やがて明治新政府が誕生すると、「各藩の商業活動は民間会社の育成を阻むため、これからは蔵屋敷等は廃止」するという通達が出されます。

土佐藩としては苦肉の策として、土佐商会を藩会計から分離して、九十九商会と名乗らせて私商社のように見せかけました

その後、廃藩置県が断行され、土佐藩は解体してしまうことになります。

しかし、九十九商会は解散せずにその財産を引き継ぎ、完全なる私商社「三菱商会」が誕生したのです。

岩崎弥太郎が政商と言われるのは、歴史的経緯から見れば当然と言えるかもしれません。

岩﨑弥太郎の経営戦術

大胆な経営手腕

土佐商会での弥太郎は、藩の重役達から艦船や大量の武器・弾薬の購入せよという催促に応えるために接待費を湯水のごとく使って外国商人や長崎奉行所の役人たちを取り込んでいきます

また、土佐にはほとんど物産がなかったため、月賦を滞らせて代金を大幅に値切ったり、かなり際どい取引も行っています

この頃には、大胆な経営手腕を持つ岩崎弥太郎なくしては、もはや土佐商会の経営は立ち行かなくなっていました。

繊細な顧客サービス

1872年に政府は外国の汽船会社に打ち勝つために、三井、鴻池、島田といった政商たちにはかって、日本国郵便蒸汽船会社を創設させました。

この会社ができた頃は、三菱商会は到底それに太刀打ちできるだけの力を持っていませんでした。

しかし、それからたった1年で、この巨大海運会社と肩を並べるほどに三菱商会は急成長を遂げることになります。

この急速な成長の背景には、徹底したサービス戦術がありました。

社員には旧藩士が多く、支配階級としての立ち振る舞いが抜けきらない者が多くいましたが、この姿勢を改めさせるために、社員に前垂れの着用を命じ、顧客に頭を下げることを徹底したのです。

どうしても顧客に頭を下げることができない社員には、「客に頭を下げなくてはならなくなったときには、俺があげた小判が書かれた扇子を開け」と言いました。

つまり、客に頭を下げるのではない、小判に頭を下げると思えばいいのだと言って戒めたのです。

一方、日本国郵便蒸汽船会社のほうは、半官半民であったため、その地位にあぐらをかき、客への接し方も極めて横柄でした。

先を読む力

そんな折、台湾に漂着した琉球漁民54人が台湾の住人に殺害される事件が起きます。

明治政府は損害賠償を求めましたが、清国はそれを拒絶し、明治政府は外交交渉をあきらめて台湾への出兵を決めます。

列強諸国は中立の立場を宣言し、日本で営業している外国の汽船会社からは輸送を拒否されてしまいます

そこで、政府は日本国郵便蒸汽船会社に輸送を命じますが、この依頼に対して、同社の頭取であった岩橋万蔵が難色を示します

”いま台湾への兵糧輸送を引き受ければ、国内における海運契約はみんな三菱に持っていかれてしまう”と危惧したのです。

また、もしこの依頼を拒絶すれば、政府は間違いなく三菱商会に仕事を依頼するはずだと考えます。

まんまと三菱が輸送を請け負えば、国内シェアを三菱から取り戻せるかもしれないという算段があったのです。

案の定、政府は三菱にこの仕事を依頼しました。

弥太郎はこの依頼に対して、次のように回答します。

「光栄これより大なるはなし。敢えて力を尽して政府の重荷に耐えざらんや」

なんと、この仕事の依頼を喜んで引き受けたのです。

岩橋の考えとは正反対に弥太郎は、この仕事を三菱にとっての千載一遇の好機とみなしたのです。

「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである」と弥太郎が言っているとおり、困っている政府に対してまず与えようと考えたのです。

結果はどうなったかというと、台湾への輸送は、現在の三菱の持ち船だけでは足りないだろうという政府の配慮から、三菱商会は政府が購入した金川丸や東京丸など三隻を貸与されました。

その後も次々と船を貸し与えられ、その数は合わせて10隻にもなりました。しかもこれらの船は台湾出兵後もそのまま委託というかたちで使用することが認められたのです。

この結果、三菱商会は日本国郵便蒸汽船会社を凌駕し、海運のシェアも一気に同社を抜き去ることになります。

弥太郎が、ここまでの結果を読んでいたかは分かりませんが、先を読む力と、勝負をかけた決断に、その類まれな商才を見ることができます。